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さうすると此手紙も尾藤の家にあつて書いたものとしなくてはなるまい。 そして尾藤の家から広島へ立つたとする。 わたくしは寛政九年四月中旬以後に、月日は確に知ることが出来ぬが、山陽が伊沢の家に投じたものと見たい。山賊はわん平を剥ぐ時、懐から出た白旗を取り上げ、こりやこれ猫間の白旗云々の白(せりふ)を言ふ。即ち林(りん)祭酒述斎を始として、柴野栗山、古賀精里等の諸博士である。昌平辺先生とは昌平黌の祭酒博士を謂ふ。 「昌平辺先生」は、とりもなほさず二洲ではなからうかと云ふ想像である。少くも此手紙は二洲の家にあつて書いたものではなささうである。